第四話  プラザ・アテネ

FRANCE

 
Chambre

 このホテルはクリスチャン・ディオール、ニナリッチ、ウンガロなどが競うように軒を並べるパリのモンテーニュ通りに面しており、シャンゼリーゼまでは徒歩で3分ほど。ちいさな回転扉を入ると、そこにはあるものは静寂と優美な空間。緑の蔦が一面をおおう中庭では小鳥がさえずり、赤いひさしとパラソルがひときわ粋なアクセントをつけている。

 

Galerie

 中庭に面した『 Galerie Gobein ゴブランの間』はギャラリーとなっているが、お茶の時間ともなれば、犬を連れた老婦人がやんごとなき風情で読書を楽しむ……。

 

Plaza Athenee Facade

 「プラザ・アテネが、わたしをソムリエに育てたのです」。
 パリの名門、「ホテル プラザ・アテネ」のシェフ・ソムリエ、ディディエ・トーマスさんに会った。「ここで働いてもうかれこれ20年を過ぎましたね。とにかくゲストに鍛えられました。みなツワモノですから……」 ある月曜日の昼食前、メインレストランでディディエさんの取材をしていた。
 ぶどう、タストヴァン(テイスティングの小皿)をかたどり、そしてASP――彼が加盟したAssociation de Sommeiler Professionnelは現在はL'Union des Sommeliers de Franceに名称変更――の文字が刻印された胸のバッチが鈍い光りを放つ。

 

Jardin

 以前、ディディエさんにはボルドー、ブルゴーニュの話をとくと聞いたが、今回はシャンパーニュの神髄を語っていただいた。
 「事物の外見にとらわれるとその本質を見誤る」とある作家がいっていたが、しかし、琥珀色の泡をふつふつと立ち上げるシャンパーニュは、まず「外見」が見ものでもある。 ホテルの紋章が彫られたフリュートグラスに“カミガミの美酒”。レストランのシャンデリアが発する橙色と中庭から入る青い光りがグラスの中で微妙な色彩の階調をつくっていた。「キュヴェ ドン ペリニヨンは飲む前から人を酔わせるのでしょうか。うつくしいお酒ですね。」とディディエさんがグラスを差し出した。ピアニストを思わせるようなしなやかな指、彼の一つひとつ動きにまで、爽やかな息づかいがこもっている。

 

Jardin

 ディディエさんはけっして「モノ」は生産してはいないが、磨きぬかれた微妙な妙技をさりげなく背後に隠しもっている「味覚、臭覚、さらに視覚の芸」を造る名匠でもある。 「人生にたとえられるシャンパーニュを学ぶために必要なことですか?それは情熱でしょう。」
 テイスティングをはじめる彼がグラスに視線を落とした──。
 「キュヴェ ドン ペリニヨンはうつくしく酔うための妙薬ですね。カトリーヌ・ドヌーブやミッテラン元大統領など著名な人たちにもサービスしましたが、ようはその人を瞬時に見極め、その人にふさわしい、つまり気持ちよく楽しい会話とサービスに努めるのも重要な仕事です。その技はゲストとワインそしてシャンパーニュから学ぶのです。」とディディエさんが意味ありげに片目をつぶった。
 ファッション関係者で賑わう『ルレ・プラザ』で昼食をとり、午後はプラザ・アテネの総支配人であるエルベ・ウードレさん(2000年にベルリンのホテルへトレードされた) のお宅におじゃました。ウードレさんはプラザ・アテネの最上階に家族と一緒に住んでいた。
 「カフェ、シガー、それともシャンパーニュ?」 エッフェル塔が望めるサロンで、ウードレさんが昨年とおなじような笑みを浮かべた。 日本の旅館をこよなく愛し、娘さんにも日本名をつけるほどの親日家のウードレさん。
 「ホテルはドラマ、あるいはオーケストラのようなもの。役者、すなわちスタッフの一人でも印象が悪いとすべてが悪いといわれる。」と数年前、ある雑誌のインタヴューに答えていたウードレさんの話をもちだしたら、今回もおなじようなことをいっていた。
 「それはわたしが大好きなシガーもシャンパーニュにもいえるでしょう。その一本、その一杯がたいせつですね。そう、キュヴェ ドン ペリニヨンこそオーケストラそのものでしょう。すばらしいワインのハーモニーです。」
 インタヴューでプラザ・アテネはホテルではなくモードである、とウードレさんがつけ加えていたが、マホガニーのちいさな回転扉から一歩でも中にはいると頷けるところだ。 ひょっとして、ホテルも人生そのものかも……。

 

Champagne

 僕が宿泊している部屋は、中庭に面した531号室。翌朝10時に黒服のギャルソンが、しずしずと朝食を運んできた。銀盆にパン・オ・レザン、クロワッサン、ブリオッシュ、パン・オ・ショコラが山をなしていたが、なんと注文をしていないドンペリニヨンが銀桶に鎮座しているではないか。
 ウードレさんのカードが目にとまった。
 極太の万年筆で「はっぴぃ ばーすでぃ」と添え書きが。
小鳥の声が舞い、蔦におおわれた中庭を眺めながら、僕は一人で目を細め、こころまともにほのぼのとしていた。

 

Kazarikei

 

merci

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